死なないために生きている

9月10日は自殺予防デーだそうだ。
人口10万人あたりの自殺者数ランキングで日本は5位なんだそうで、警察庁の資料によると平成22年の自殺者数は 31,690 人。
同じく警察庁が今年9月8日に発表した資料によると、東日本大震災での現時点で確認されている亡くなった方の数が 15,776 人。行方不明の方が 4,225 人。足してはイカン気がするけど(汗)、えいやと足してしまっても 20,001 人。昨年自殺した人のほうがまだ 10,000 人以上も多いことになるわけで、これはただごとではない事態である。
あまり明るいハナシではなくて恐縮だけれども、じゃあなぜ死んではイカンのかということについて、僕なりの解釈の話をしてみたい。
「人が死んだらどうなるのか」というのは、人類の大きな命題である。なんてことをよくきくし、死について真剣に考えるのは良いことだなんて話をよく聞くのだけれども。
簡単なことだ。人が死んだら死骸になるのである。
人の意識は脳を中心とした肉体の化学反応によって生まれる。らしい。大脳生理学だかなんだかで、そういう。らしい。良く知らないが。だとしたら、肉体がなければそもそも意識などというものは存在しないのであり、肉体と意識は不可分だ。
仮に、意識というものが肉体とは別に存在するとしてみよう。
人の意識をソフトウェア、肉体をハードウェアとして例えてみる。
ハードウェアが動作不能にまで壊れたとしても、ソフトウェアを別のハードウェアにコピーすればまだ動くかもしれない。
しかし、そのソフトはそのハード専用のものであり、他のハードでは動かない。この世界にまったく同じ人が2人以上いないからだ。
やはり、ハードが壊れればともにソフトも失われるのである。
日本人は他の国の人に比べて信仰心が薄いなどという。
でも、「人が死んだら霊になる」と漠然と信じているひとは驚くほど多い。
「霊」とはなんなのか。たぶん、液体のようなものなのではないか。
容器である肉体が壊れてしまったら、それは流れだし、やがて蒸発して、雲の1部になる。
その集合体の雲を、日本では「ご先祖様」と呼んでいたのではなかったろうか。
その証拠に、江戸時代の浮世絵に描かれる「幽霊」はみんな同じような顔をしているではないか。
かつて「ご先祖」や「幽霊」とは、特定の誰かを示す言葉ではなかったのではないだろうか。
もしそうなら、日本の祖霊信仰はクラウド指向だったのである (ドヤ顔)。
メガネをかければメガネをかけた感触がある。はずせばなくなる。あるものがなくなれば、それはなくなる。
個人が個人でいられるのは、生きてその肉体があるときだけだ。
死んだあとには残るのは死骸だけである。
死骸は物体であり、ごみである。しかもかなり醜い。
なにかの物語で「きれいな顔してるだろ?死んでるんだぜ」などというセリフがあったが、どんな生物であっても残念ながら死骸はやはり醜いのだ。
冷凍したり血抜きしたりしない限りどんどん腐敗していく困った物体である。
話しは変わるが、アラフォーの中年男性ともなると、なかなか清潔でいるのは難しくなってくる。
自分の好むと好まざるにかかわらず、ちょっと油断するとあっさり不潔なオッサンのできあがりである。
というわけで、自分は生きているのにもかかわらず、なかなか困った肉体を持て余している。
もし、僕が死んでしまったら。
自分の、さらに醜くなった死骸を誰かの目に晒し、あろうことか自分でない誰かにそれを片づけてもらわなければならない。
おぞましいことである。
自分の大事な家族や友人にそんなことを託すなんて冗談じゃない。
そんなことは死んでもいやだ。いや、死んでからそうなるのか…。
死んだ後に何かがあるわけではない。何もない。そこにはただただ醜い死骸が残るだけだ。
だから、死んではいけないのだ。
仏教のお坊さんは「生に執着してはいけない」と言うかもしれない。
しかし、死んだあとには何もない。少なくとも自分という個人ではなくなるのである。
仏教文化の中でもいろいろと物語は作られているが、仏教のおおもとであるインド哲学は死んだら輪廻転生して別の存在になるのであって、やはり現在の自分個人ではいられないのである。
希望も絶望もまったく関係ない。自分の気持ちがわかってくれる人がいるかどうかすら関係ない。
生きていたいか、死にたいかすら関係ない。
死んだあとの自分の醜い死骸を自分自身で始末できない以上、生きている限りは生きてい続けなければならない。
だから、死んじゃいけないんだ。

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