正しい解答より妥当な屁理屈


えーとつい先日41歳となりまして、数えは42ですから本厄まっただ中!とびだせ中年!といったカンジなんですけども。

まあ先人が「本厄」などと言ってわざわざ気をつけろよ!と忠告してくださるだけあって、例年と比べてワリといろいろあります。いや、もちろん42が魔法の数字で、神秘的になにかがあるなどというタワけたことを言う気は毛頭ありませんが、このあたりで自分自身の気力知力体力といったものが疲れてくるトシマワリなんでしょうし、そういうオッサンに付き合わされる周りのヒトビトやモノもそれなりに疲れてくるということなんでしょうね。

もっとも、「厄年だからなにかある」というよりは、「なにかあったらとりあえず厄年のせいにしておきたい」というのが正解のような気がするわけで、こうなんというか、いろんなものが疲れてきているトシマワリの頃に、気持ちの逃げ場を先人が用意してくれてたんだな、と思ったりするわけです。

日常生活もそうだし、おシゴトなんかでもそうなんですけども。

なんというか、正しくあることは、なかなか気力体力のいることだなあということに気がついてしまうわけです。

例えば30代前半の中堅スタッフなんかは、いろんなことがこうあるべきだ、こうするべきだといろいろ意見があるわけです。だけんども、ワタクシなんぞにしてみると、ああ、それ疲れるなあと思ってしまうわけで。

もっとも自分だってその頃はやっぱりいろんなことに対してこうあるべきだというか、なによりも自分がこうありたいというのがあったような気がしますな。

もう今はそんなに正しくあることにこだわらないというか、そんなにがんばれないというか、そうすることによって疲弊するほど削れるところがもうないんだよねというが正直なところだったりするわけで。

そういう意味では、正しい目標より妥当な着地点がほしいというのが何事につけてもあるわけです。これは諦めたということではなくて、ある意味老獪さみたいなのが少しずつ身につき始めているのかなあなどと思ったりするわけです。

「着地点をみつける」というのも、これはこれでおもしろいシゴトなので、これでもう10年は楽しくやっていけそうだななどとも考えておるわけですが。

言い換えると、正しい解答より、納得のいく屁理屈がほしいわけです。若い人からみたら、めんどくせーオッサンで、老害なのかもしれませんけどね。

こうやって歳相応になっていくのだなあと思ったりなんかして。

たぶん、原発反対とか、政治がどうこうとか、激動の国際情勢とか、そういうのも、ホントはそういうことなんじゃないかしら。と妄想したりするわけです。「正しいこと」を言ったり行ったりするのは、いろいろとインパクトが強いわけで、妥当な落とし所が本当は必要なんだよね。

でも、イマドキは「正しい」ことの方が求められているような気がする。だから、今はどことなく「戦前」のムードが漂っているような気がするんだよね。

ちょっと飛躍したような気がするけんども、まあそんなことを思う昨今であります。


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