善光寺と宗教戦争

善光寺

勤務先用に書いたものに一部加筆・修正しています。


先日の善光寺の御本尊はどんだけ古いのかというお話しで、実は日本最古の仏様だったというお話しをさせていただきました。

ちょっと前回書いたのはいろいろ正確でなかったようなので (汗) もうちょっと詳しくみてみましょう。

朝鮮半島にありました百済という国から、日本、というか当時は倭国というのですかね、仏像や経典が国家間の公的な贈り物としておくられてきます。これを仏教公伝というのだそうで。どうやら善光寺の御本尊である阿弥陀如来像もその中の1つだったということのようですね。その阿弥陀如来像の自称ですけれども。

で、まあ当時の欽明天皇が、これどうしたもんかなー、日本でも仏教やるかなーと悩んだわけです。

大臣の蘇我稲目 (そがのいなめ) さんはこれを受け入れるべしと言ったものの、大連 (おおむらじ) といって兵器の製造管理をしていた物部尾輿 (もののべのおこし) さんはこの蘇我さんをあまり快くおもってらっしゃらなかったようでして、神事・祭祀を司っていた中臣鎌子 (なかとみのかまこ) さんと一緒になって、日本には古来の神がおるのだからして、そんなんいらない!と反対するわけです。

で まあ天皇は困っちゃいまして、とりあえず蘇我さんに一式あずけてあとよろしくと丸投げします。で、蘇我さんちの息子の馬子 (うまこ) さんが自分ちにその仏像を設置します。えと前回は自分の娘と書きましたがちょっと間違ってまして、そのときに見物に来ていた近親者の娘さんがたいそうその 仏さんを気に入ったようなので、そんじゃちょっとお願いよということで、そのコを含め3人の女性に尼僧になってもらいまして、日本の仏教がはじまるわけで す。

欽明天皇が亡くなって敏達天皇の時代となり、蘇我稲目さんの跡をさきほどの蘇我馬子さん、物部尾輿さんの跡をこれまた息子の物部守屋 (もりや) さん、中臣鎌子さんの跡を中臣勝海 (かつみ) さんがそれぞれ継がれます。

蘇我馬子さんは新しい天皇に、あらためて、やっぱほら外国もみんなやってるし、日本だけ遅れちゃうよ?仏教やろうよーともちかけます。まあこんなフランクではないと思いますけどもね。

どうやら蘇我さんちはそもそも大陸とつながりがあるようで、宗教的なことだけでなく、将来的な外国との国交のことも考えていたようなんですな。

ところが、ちょうどこの頃から悪いことに疫病が流行りはじめましてね。どうやら天然痘のようなんですけども。

物部守屋さんと中臣勝海さんはほれみたことか!と。外国の神様なんぞあがめるからバチがあたったんだ!仏教なんぞ禁止するべきだ!とこの機に乗じて dis りまくるわけです。

で、敏達天皇はいったんはやってもいいよと言ったものの、そもそもあんまり仏教とか乗り気じゃなかったしーということで、禁止にしてしまいます。

で、守屋さんはしめたとばかりに馬子さんの建てた寺院をかたっぱしから焼き討ちしまして、仏像は川に投げ込み、尼僧つまり女性のお坊さんを、見せしめのために公衆の面前で裸にして鞭で打ったというので、ヒドいハナシもあったもんです。

で、このとき捨てられたものの1つが、善光寺式阿弥陀三尊像、後の善光寺の御本尊だということのようですな。

その後、仏教をやめたにも関わらず疫病はとまらず、敏達天皇もはやくに亡くなってしまいます。

次の用明天皇は、仏教やりたい派。それも当然、このひとは蘇我稲目のお孫さんでして、馬子さんもやられっぱなしじゃないというか、スゴイ政治力ですな。

ところが疫病のイキオイはとどまらず、用明天皇もはやくに亡くなってしまいます。

今度は守屋さんも黙っておらず、自分と懇意である穴穂部皇子 (あなほべのみこ) を天皇にしようとするのですが、用明天皇の妹 (後の推古天皇) の許可を得た馬子さんが穴穂部皇子を暗殺しちゃいます。許可を得てったって自分の姪っ子ですからな。

でまあさすがにそこまでしちゃうとコトはオオゴトでして、蘇我一族と物部一族は全面戦争になります。これが日本の歴史上最初にして最大の宗教戦争ということになります。

最終的には物部守屋さんは戦死してしまいます。中臣勝海さんは蘇我一族を呪い殺そうとしていたことがバレて既に暗殺されていました。

次の天皇である崇峻天皇はもちろん蘇我さんちの一族の方でして、はれて仏教は認められるわけです。ところがこの崇峻天皇も後に蘇我馬子に暗殺されてしまいまして、後釜に、先ほどの用明天皇の妹を推古天皇とするわけです。そんなカンジで、蘇我一族のダーティな権力拡大が本格化するわけです。

外国から来た新しい神様を擁する蘇我氏が、昔ながらの神様の方が大事と言った物部氏を滅ぼした。という図式になるわけですが、その実本当は神 様がどうこういうよりは、蘇我氏と物部氏の政治上の権力争いの口実だったのではないかとも言われておりまして、実は物部氏の本拠地から寺院の跡が発見さ れ、もしかして物部氏も仏教を嫌っていたわけではなかったのではないか?という疑問もあるようです。

この戦争のときに、自ら四天王像を彫り、それを擁して神がかり的な大戦果をあげた神秘的な若者がおりまして、その名を厩戸皇子。後の聖徳太子だと言われております。こまるねオカルトは。

というわけで、長くなりましたけども、自称とはいえそんな時代から受け継がれてきた善光寺御本尊、そりゃ世に出せないぐらい痛みもしてるわな、と、なんとなく納得できるような気もしますね。

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