たたる善光寺


勤務先用に書いたものの一部修正転載です。


あけましておめでとうございます。こちらのお写真はつい先日撮ってまいりました、お正月モードの善光寺山門です。

善光寺境内には、昨年世界中を席巻しました、Google の位置情報ゲーム「Ingress」のポータルキーやレゾネーターといったアイテムが、普段は見られない量投棄されておりまして、あ、もちろんゲームの中のお話ですが、まるで東京山手線の主要駅のようなありさまになっておりました。これを書いているワタシは善光寺境内でJR奈良駅のせんとくんのポータルキーを拾ってしまいましたが、全国からエージェントの方々がいらしていたのだなあと。御開帳がはじまったらどうなるやら、今から楽しみでございます。

さて、前回なにやら不穏な終わり方をいたしましたが、その続き。

善光寺というのはもちろんお寺なわけで、奉られているご本尊は日本最古のお仏像。となりますと、因縁話のひとつもあるのではないかと。

普段「オカルトはいやだね」などと言っておりますが、「お話」として楽しむ分にはもちろん決して嫌いではありませんので、今回はそんな善光寺のオカルト話を新年早々してみようと。新春歴史ミステリーという趣向でございます。


源頼朝篇

さて、善光寺が現在の場所に現在の規模で定着したのは、鎌倉時代に源頼朝の命によって善光寺が修繕されたことがはじまりであるといわれております。

頼朝というひとは全権を掌握して鎌倉幕府を開くまでに、いろいろとツライこともあったようでして、たとえば自分の味方であった弟の源義経を最終的には殺害してしまったりと、目的のためには親族をも手にかけなければならなかったりしたようです。

そんなことが後ろめたかったのかどうかは知りませんが、鎌倉幕府開幕後、前回も北向観音のお話しとして書きましたが、戦火によって荒廃してしまったお寺なんかの復興に尽力したようでして、善光寺もその1つなわけです。

善光寺修繕後、頼朝本人が善光寺に参拝に来たのだそうで、いくつかそのような記録が残っているのだそうです。

そのとき、参道のちいさな橋、この橋は今でも存在するのですが、その隙間に馬の蹄が挟まってバランスを崩し、あろうことか頼朝は衆人環視の中落馬してしまうという失態を演じてしまったとのこと。

その馬の蹄が挟まったのだか、その際の衝撃であいてしまっただか、なんだかその橋にはちょうど馬の足のさきっちょぐらいの丸い穴が開いています。こちらのお写真。

駒返りの橋

この橋は駒返りの橋と呼ばれておりますが、そんな都合よく穴が開いていたというのも変なハナシですし、そのときに馬が踏み抜いて開けた穴だとしても、これ結構厚い石だけどなーということで、どこまでホントかわかったものではありません。

しかしその後の頼朝はどうもツイていなかったようで、幕府の将軍職は頼朝含め源氏はたった三代でついえてしまいまして、北条氏に事実上のっとられてしまします。

鎌倉幕府の公式な歴史書である「吾妻鏡」という文書では、この初代から3代目までの将軍については批判的に書かれているのだそうで、また、ちょうど頼朝が善光寺を参ったあたりの部分が欠落しているとのことです。

晩年の頼朝は、先述のとおり各地のお寺の復興に尽力するわけですが、見ようによっては、戦時のもろもろがこたえたのか宗教に傾倒したとも見えなくはなかったりもします。弟、義経に祟られたんだろうなどという悪い噂もたったようですな。

そして頼朝の死のきっかけはこれまた落馬だったといわれているそうな。


上杉謙信篇

さて、善光寺平の川中島というところは、皆様ご存知武田信玄上杉謙信が何度も闘ったところでして、大河ドラマの舞台に何度もなっておりますな。

上杉謙信は越後、つまり現在の新潟は上越あたりの方ですが、これまたナゾの多いひとでして、実は女性説などいろいろありますけども、この方も自分自身を釈迦の守護者である韋駄天の化身であると名乗ったりして、ワリとオカルトじみた言動のあった方なのではないかという説もあります。

で、対する甲斐山梨の武田信玄なのですが、この武田家、実は頼朝と同じ河内源氏を先祖に持つ一族だったりします。

仏法の守護者を自称する謙信と、頼朝と同族である信玄。わざわざ善光寺平の覇権にこだわったのは、実は日本の元祖仏像である善光寺御本尊を奪い合っていたのではないかという見立てもあるようです。

後に和睦成立後、謙信は善光寺から御本尊を含んだ宝物を越後に持ち帰り、奉ったお寺は浜善光寺と 呼ばれるようになり、現在に至ります。アレ?御本尊持ってちゃったわけ??いや、実は謙信が持ち帰った御本尊は当時すでに大量に作られていた御本尊のレプ リカだったのではないかという説がありまして、ではホントの御本尊はどうしたのかというと、信玄が甲斐に持ってっちゃったらしいとか。このへんは諸説ある ようですがね。


武田信玄篇

さて、片や善光寺御本尊を甲斐に持ち帰った信玄は甲斐善光寺を建立します。これが永禄元年といいますから、西暦にすると1558年。

信玄と善光寺の縁というのは実は川中島の合戦よりもっと前からだったのだそうで、信玄が善光寺如来を参拝したところ、突如両眼が見えなくなり、あまりのことに嘆き悲しみ7日7晩祈念し続けたところ、満願成って眼が治ったと。

信玄の眼患いという伝説なのですが、これが享禄元年のことといいますから西暦にして1528年。信玄がまだ7歳のことであります。いきなり子どもの頃に早くも呪われちゃっていますけど、なんだか7という数字がよく出てきますね。そういえば御開帳も数え年で7年に1度です。

武田家が頼朝公と同じく河内源氏を祖に持つということも意識されているようで、甲斐善光寺には日本最古の源頼朝木造が飾られています。下のお写真は甲斐善光寺のサイトから拝借させていただきました。

最古の源頼朝木造

…なぜこの頼朝像には両眼が入っていないのでしょう??なんだか不気味ですね。


織田信長篇

さてここまでは前フリ。

信玄率いた武田家は事実上織田信長によって壊滅させられるわけですが、この信長、天台宗比叡山延暦寺浄土真宗本願寺を拠点とした仏教勢力と激しく交戦し、お寺を焼き討ちにしたりした、神仏を恐れぬ男だったといわれておりますが、しかし信長本人はさすがに気がとがめたのか、キリスト教など新しい宗教勢力を認めたりして、この人もまた信仰にいろいろあった人であったと思われるわけです。

で、もちろんそんな信長ですから、武田氏から接収した日本元祖の仏像である善光寺御本尊から力を得ようとしないわけはないわけで、岐阜善光寺をつくってそこに奉るわけです。それが、天正10年 (西暦1582年) 3月のこと。

そしてご存知信長は本能寺の変で、お寺で焼かれて死んでしまうわけですが、それが同じく天正10年6月。善光寺御本尊を奉ってからたった3ヵ月後のできごとだったわけです。人々は善光寺の仏罰があたったと噂したとかしないとか。


徳川家康篇

さて、信長が亡くなってからは、いちばんの盟友といわれていた徳川家康がいろいろと引き継ごうとするわけです。もちろん善光寺御本尊も見逃しません。ちゃっかり横取りした家康は自分の地元遠州鴨江寺に御本尊を移します。

ところがある夜、家康の夢枕に善光寺如来があらわれたそうで、曰く

善光寺に帰りたいなー

家康は武田軍と闘った際に恐怖のあまりうんこ漏らしたという、いわいるビビリですから、あわてて甲斐善光寺に御本尊をお返しすることになります。

ただし、徳川家と善光寺のご縁はその後も続くことになり、善光寺御本尊のレプリカ「前立本尊」は何度も江戸へ出開帳に行ったそうですし、現在も善光寺境内には徳川家大奥供養塔というものが建っています。


豊臣秀吉篇

さて、家康がヘタレている間に旧信長勢力をのっとっていったのが豊臣秀吉でして、家康への対抗心も強かったと言われてますから、家康が返却した善光寺御本尊を見逃すわけがありません。

秀吉は自分の権力を示すために大阪城をはじめド派手な建造物をつくったりしたわけですが、文禄4年 (西暦1595年)、京都の方広寺というところに、奈良の大仏以上にでかい大仏と大仏殿を建てたのだそうです。

この方広寺の大仏殿は後に家康によって方広寺鐘銘事件という、豊臣家が家康に滅ぼされる原因となる陰謀事件を起こされたりしております。

んが、この大仏殿完成のなんとその翌年、大地震によりその大仏が崩壊していまうというとんでもないことが起きます。

うぬは、京の町を守るを忘れ、まっ先に倒れるとは、慌て者が!」などと強がったそうですが、まあショックだったのは確かでしょうな。

そこで目をつけたのがいろいろといわくのある善光寺御本尊。新たに作り直す大仏のおなかの中に胎内仏として埋め込んじゃおうと考えたそうな。

そんなわけで善光寺御本尊を運ぶわけですが、その警護には家康をはじめとしたそうそうたる大名たちをあたらせ、これまたド派手な行進を行ったとか。

そうして善光寺御本尊を手に入れた秀吉の夢枕にまたしても御本尊、現れるわけです。

あのさあ、信濃に帰りたいんだけど

実はかねてからナゾの奇病に悩まされていた秀吉、善光寺に祟られているのではないかとマジで噂されていたそうなんですが、さすがにこれにビビりまして、あわてて善光寺御本尊を信濃へ返します。慶長3年 (西暦1598年) 8月17日、善光寺御本尊一行が信濃へ向けて京都を出発したその翌18日、秀吉は命を落としたとのこと。

さまざまな武家大名の手に渡った善光寺御本尊ですが、家康が天下をとったのは、善光寺御本尊への信仰が他の大名より厚かったからだ、などとウソかホントか知りませんが、いかにも信州人が喜びそうなオチがついていたりします。

---いやーなんだかおそろしいですね善光寺さん、なんかすげー力持ってそうじゃないですか。ただの観光寺だと思ってましたよ。

そうだな、そんなすごい善光寺さんは、いったいなんで京都や奈良じゃなくて、信濃なんかにいるのかな。

---は?

そしてそんなすごい善光寺さんだけでなく、北向観音にまで監視させなければならないような、そんなとんでもないなにかが、善光寺に隠されているのか、ということだ。

---えーまだつづくんですかこのはなし?

 


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