『バードマン』~あるいは家庭のテレビが大画面になった現在映画館で映画を観ることの意義~


そろそろ長野県内の映画館では上映が終わったりレイトショーのみになってきたりしているので、感想を書いても良い頃かなと思いながら書くことにする。

たぶん、ここ20年ぐらいの間で、いちばん「これはすげぇ!!」と思った映画であった。

いろんなところでいろいろと「すげぇ!」ポイントは言われているので、そのへんはとりあえず列挙しておこう。

  • バベル』の監督の最新作
  • ゼロ・グラヴィティ』の撮影監督による、全編がワンショット撮影に見える特殊な映像がスゴイ
  • かつてティム・バートン版『バットマン』で、現在のアメリカンなリアルヒーロー映画の元祖と言えるバットマンを演じたマイケル・キートンが、かつてヒーロー映画を演じてその後恵まれていない役者の役を演じていてホントっぽくておもろい
  • そんな主人公になんとなく批判的な役のエドワード・ノートンも実は超人ハルク (『インクレディブル・ハルク』) を演じたひとだし、娘役のエマ・ストーンも『アメイジング・スパイダーマン』でヒロインを演じたひとである
  • 「ブロードウェイに出るのが夢だった」と言ってる微妙に売れない女優役のナオミ・ワッツは、こういう「微妙に売れない女優役」ばっかしやっているひとである
  • かつての栄光から逃れられない主人公の内なる声が妄想として彼を責め立てるドラマである

まあだーいたいこんな感じだと思う。僕もこのぐらいの前知識で観に行ったのである。

キャスティングがおもろいのはとりあえず映画マニア向けすぎるのでおいておく。僕もそんなに細かいことはわからん。

まず、映像は確かに驚愕の映像であった。特撮シーンもちょびっとあって、それらもちょーカッコイイのだけど、それよりもキッタネェニューヨークの裏通りやら、古臭い (劇中のセリフで言うなら「屁の匂いがする」) 劇場やらがワンショットに見える特殊な編集で繋がれていく奇妙な映像が素直にスゴイ!と思った。これは大画面で観る価値のあるものだと思う。

そしてそれよりなにより、音響の凄さである。

正直言って、地元長野県内の映画館は、近年どこもシネコン化が進んで新しい設備になったように見えるものの、音響的にはセリフ重視の中音域を極端に強調したイコライジングでやたら音量ばかり大きくて、お世辞にも「音がいい」とは言い難い劇場がほとんどだと僕は思っている。

にもかかわらず、これはすごい!と思うバランスのサウンドだったこと。

そして音楽。2010年代になってから、ジャズが特にものすごい進化をとげている。

誤解を恐れずに、古くからのファンの方々の逆鱗に触れるであろうことを承知であえて書くけれども、ジャズといえばスイングジャズとか、その後のモダンジャズからフリージャズなどのように、新しくとも60年代ぐらいの音楽をリピートしているか、その後にフュージョンなどのやわらかい80年代カルチャーに流れてしまったもののことであって、近年では R&B をフォローしたというか、それむしろ R&B のインストじゃない?というものを「クロスオーバー」という名義でやっていた、ちょっと残念な音楽が「ジャズ」だったというのが僕の偽らざる感想である。

それが2010年代となってから、ロバート・グラスパーとその一味を中心に、リズムが「おかしい」音楽がどんどん出てきている。これは菊地成孔氏によるとドラムンベースからの逆輸入という説があるのだけれども、すなわち打ち込みで作られた複雑なリズムトラックを、むしろ人間が超絶技巧でさらに複雑なグルーヴにしたのが2010年代のジャズの特徴といえる。これはたぶん2010年代後半にはポップスにも導入されていく「概念」である。もちろん日本のチャートに出てくるような音楽とはまったく別の世界のハナシだけれども。

そしてこの「バードマン」の音楽は、ほぼすべてが、パット・メセニー・グループのドラマー、アントニオ・サンチェスによる、そんなイマドキの複雑なドラムソロばかりなのである。

90年代からゼロ年代はインターネットの影響により、あまり知られていなかった秘境や地方の文化が世界に発信されると「信じられていた」時代だったけれども、2010年代前半はソーシャルネットワークの普及により、むしろ都市部の偏った文化と価値観が各地方にスタンダードとして発信・強制された時代である。

音楽も辺境の音楽がもてはやされた時代から、都市部に先鋭的なものが集中した時代であり、このドラム中心のジャズというのは「バードマン」の舞台たるニューヨークの最先端の「音」を想像させるものである。想像と言っているのは、ワタシはニューヨークなどに実際に行ったことがないからなのだけどね。

そして音響のハナシに戻る。このドラムソロの BGM が、はたして演出としての効果音楽なのか、はたまたこの映画の舞台のニューヨークの街角でストリートミュージシャンが演奏している効果音としての生活音なのか、そのあたりをわざとボカしている。

これをサラウンドでやるもんだから、ちょっと前まで BGM だと思っていたものが、次の瞬間では右 (あるいは左) の方に音がよったなーと思うと、そっちの方からストリートでドラムを叩いているミュージシャンが映像としてパンインしてきたりする。

音楽と音響によって、それが単なる描写なのか演出効果なのか、その境目があいまいになる、ものすごい音響演出である。

正直「地元の映画館は音が悪い」と思っていた僕は反省することになった。作品によってこんなに音で感動できるのか!と。

ちなみに最後の方のクライマックスでは、なぜか劇場の中でも背後でドラムを叩いているナゾのヒトがチラチラ映るけれども、あれはそういう「ギャグ」であり、そういうギャグを挟むことでさらに現実と非現実の境界をあいまいにしている。と思う。

ジャズとか興味ないし!というひとも、音楽でびっくりするシーンは少なからずある。BGM からとても自然な流れで、あれ?これどこかで聞いたことある音楽だなーと思う曲になって、あれあれこれなんだっけなーと思っていると、おいこれ iPhone の着信音だよ!とか、Mac の FaceTime の着信音だよ!となるシーンがいくつかある。この音響演出も演出としての BGM から劇中の生活音との境目を意図的に曖昧にしているのだと思われる。

そう、この映画の最大のポイントは、「現実と非現実の境界があいまいである」ことだ。

これは先日亡くなったノーベル賞作家、ガブリエル・ガルシア・マルケスなどの南米文学作家がもっとも得意とした「マジック・リアリズム」である。

主人公がきいている「バードマン」の声や、彼が空を飛んだり、いや、飛んだのは単なる妄想だと思わせるシーンがあったりするのは、それが劇中本当におきていることなのか、それとも妄想なのか、どっちなのか、作り手はどっちだと思っているのか、それと関係なく観たヒトが感じればいいのか、とかく答えを求めたくなると思う。

多くの映画評論家はそれぞれどれかに倒して評価を書いているようだし、この映画を観て苦しんでいるひとの感想の多くはそれのようである。

正解は「そんなものこそどうでもいい」のである。

現実と非現実がごちゃごちゃに混ざっているそのごちゃごちゃ感を楽しむものなのである。

ハリウッド映画とは「ガキでもわかる単純明快映画」であることが至上主義なのだと僕は思っていたので、こんな南米文学みたいな無茶してるハナシがアカデミーの主要部門を総なめにしたというのだから、アメリカってのもバカにできない恐ろしい国だなと思ったのが正直なところである。もっとも当然といえば当然ながら、興行収入はイマイチ振るっていないようだけれども。

わかるひとにはわかるようにいうと、日本の文化史の中では、筒井康隆山下洋輔文化圏が絶頂期にドタバタやってた感じに近いといえばそうだと思う。山下洋輔氏の弟子を自称する菊地成孔氏が絶賛するのも道理というものである。

しかしネット上、筒井 (ちなみに日本でマルケス作品を絶賛したのも筒井氏である) 作品との類似性を指摘しているヒトが驚くほど少ないのだけれども、これはプロの映画評論家含め日本でネットでめだっている論者の引き出しの貧困さを物語っているようにも思う。

正直、テレビの地デジ強制移行以後、一般家庭にはブラウン管時代からは想像もつかないでかい画面のテレビ受像機が設置されている上、「映画館では静かにするのがマナー」などという、だったらヒトのいないところでひとりで観たほうがいいんじゃね?みたいなおかしなマナーが正義と言われるようになった昨今、映画館で映画を観るという文化はそろそろ滅亡したんじゃないかと思っていたのが正直なところだったのだけれど。

いやー、ひっさびさに、映画館で映画を観てよかった。と思う、ものすごい映画を観てしまったというのが本作の感想である。

あなたが少しでも「映画が好きだ」と思っており

あなたが少しでも「自分は大人」だと思っているなら。そしてこれはクニが認める法定年齢に達してるという意味ではない

是非、観た方がいい。

それで「自分には合わない」と思ったとしても、それはそれで収穫だと思うのがオトナである。そういうスゴイ映画だった。まだの方は是非。


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