THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦


80年代に盛んに近未来SFアニメが戦争や紛争を描いたのは、我々の日常から戦争や紛争がとても遠いところにあったからということは言えるかもしれない。ガンダムが骨董無形なロボットアクションものの中にリアルっぽい戦争を描いたとして、物語の中の戦争は寓話であった。

機動警察パトレイバー」は、もう少し日常との地続き感を強調して描かれたものだった。それは今のアニメファン的な言葉で言えば「日常」的作品、ということなのかもしれないけれども、日常的感覚と地続き感があるということは、ファンタジー的な要素が減るということであり、それによってまったくのSF的舞台よりはいくばくかの臨場感を得ることになる。

そして「機動警察パトレイバー2 THE MOVIE」 (以下パト2) という映画はまごうことなき問題作であった。

ガンダムがどれだけ戦争の悲惨さを描こうが、それは人類がスペースコロニーに移住するような遠い未来を舞台にした寓話である (だからこそ、戦争そのものより人類の覚醒がテーマとなる)。しかしパト2は、舞台設定としては10年後、特殊な大型土木作業機械「レイバー」が普及した時代ということにはなっているけれども、まあこんなものはアリバイみたいなものであって、事実レイバーなんかほとんど出てきやしないわけだけど、今この時代の我々が住んでいるこの国の足元は、戦場とつながっているのだということを、実際にクーデターもどきのテロを映画の中で起こして証明してみせた作品であった。

主人公である後藤隊長は、不正義の平和を護ることについて疑義を出されながらも、それでも「これはクーデターではない。戦争という状況を演出してみせたかっただけのテロだ。だからとめなければいけない」という結論に達し、初代第2小隊の面々も、いろいろいわれた人たちではあるけれども、なんだかんだいって彼らは「良い子」たちであり、自分たちの正義を信じていた。だからなにをおいても事態収拾のために集結したのであろう。

で、この THE NEXT GENERATION パトレイバー。まずはなんといっても第3世代である現役第2小隊メンバーの氏名が、初代メンバーをもじっているあたりがとても怪しい。なんとなく、昔のアレをやるんですよーと言っているような、安っぽいというか、そりゃ劣化コピー的な作品にしかならないんじゃない?昔のあの作品も傷つけることになるんじゃない?という気がしてしまったのは正直なところであった。

事実、伊藤和典氏やゆうきまさみ氏は、人物の氏名を変えるよう再三要請したということをご本人たちがTwitterで表明してらした。

で、最初の第1章をみて、誰もが違和感を感じたはず。名前や雰囲気が近いんだから、もちろん初代メンバーと似たカンジなんだろうと思ったら、みんななんだかちょっとヒクほど「悪い子」たちであった。なるほどな、こう来たかと。以前のシリーズと同じカンジでくるように見せかけておいてそれはダマシで、今のメンバーのキャラを別の方向にしたんだなと思って感心して拝見した。

ノベライズ版も2巻まで読んだのだけど、それによるとどうやら本当は塩原や泉野は、初代メンバーである篠原や泉と、主にシゲさんによって比較されて辟易しており、まるで自分が劣化コピーのようじゃないかと悩んでいるという描写があった。

しかし実際に映像化されているシリーズはそんなことなく、むしろ彼らはそんな風に悩むほど頭が良くなく(ォィ)、シゲさんはロコツにそんなことするほど頭が悪くなかった。その結果、昔と同じようで全然違う新しい第2小隊のメンバーがとても魅力的なキャラクターになっていた。

しかし、今になって見返してみると、1人だけそうではないひとがいた。

後藤田隊長は第1話から、旧TV版第3話の後藤隊長の長ゼリフを完コピしていたり、アーリーデイズのラストの後藤隊長のオチのセリフを踏襲していた。

実は後藤田隊長だけは、過去の特車2課と今の自分達の差異について最初からずっと意識していたのではないかと思う。

以下ネタバレあるのでご注意。

本作では、かつてパト2で柘植行人が起こしたテロ事件と同じように、柘植シンパの残存勢力によってまたしても首都の安全が脅かされる事態となる。しかし、それは柘植本人が起こした事件に比べると極めて矮小で、騒動を起こすだけ起こしてさっさと投降するという、劣化コピーにもほどがあるという計画だった。

後藤田隊長は、特車2課の伝統をどうするのか、どういう正義をつらぬくのか、行動を起こすのは当然だよな?と、責め立てられることになる。なんと、南雲しのぶ初代第1小隊隊長まで登場して、柘植事件のときと同じシチュエーションを演出されて、あれよあれよという間に状況が進行してしまう。

最後の出撃の際に、集まったメンバーも「ホントにやるんですかあ?」と、相変わらずの調子で言っているわけで、そりゃそうなんだよね。初代メンバーはいろいろと言われながらもやるべきことがあって、自信をもって職務に当たれていたし、自分たちのやっていることに自負もあっただろう。だから正義を貫こうと思うことができた。

現在の特車2課は、いったいなんのために存在しているのか自分たちでもよくわからないような部隊であるし、しかももう廃止になることは決定したし、普段から仕事しようにも仕事にならない状態でモチベーションだだ下がりだったし、そんな状態で「正義」などというものがあるわけがない。

とにかく、過去の戦争の劣化コピー的な戦争状況が、良いとか悪いとかでなくどんどん進行してしまって、かつての後藤隊長のように「不正義の平和でも護らにゃならん」という気になれるような落とし所も得られないまま、過去からどんどんと急かしたてられまくるという、とても困った状況となる。

最終的にそれを打破するのは女性3人なのだけれども、彼女たちは正義がどうこうとかはある意味関係ない。自分たちの (たぶん) 個人的信念にもとづいて行動した結果である。

高畑は伝統を作っていくのは自分たちの行動であるという強い信念があり、カーシャはそもそも戦闘から自らのアイデンティティを見出してる (なので普段はだらけている) し、泉野はとにかく「勝つ」ということに強いこだわりがある。

ある意味、社会的な思想のようなものはもうどうでもいいというところなのかもしれない。しかし、たぶん男性はそれでは納得できないというか、行動するのは難しいように思う。後藤田隊長は最後まではっきりとした答えを見つけられなかったんじゃないだろうか。

過去が、劣化コピーのように事態を繰り返そうとしている。その過去は自分に対して決断しろ、行動しろと迫ってくる。それに対して答えを見出せない自分は、自分自身を過去の劣化コピーとしてうけいれるのか、それともそうでないなにかを見つけることができるのだろうか。

と、そういう映画として僕はうけとった。パト2以上に大変難しい、答えのない映画だったんじゃないだろうか。

ただし、押井守作品は何度も見返して見た側が答えを見つけるタイプの映画なので、本作は1回劇場でみただけだし、もしかしたら今後まったく違う感想になるかもしれないけれどね。


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