謝るなら、いつでもおいで


10年前の2004年におきた、佐世保小6女児同級生殺害事件について書かれた本である。これはたまたま偶然なのだけれど、僕がこの本を読み終えた翌日、またも佐世保で今度は女子高校生が同級生を殺害する事件がおき、正直どっきりした。

以下ネタバレあり。

本書は長野県出身で事件当時毎日新聞佐世保支局の記者だった著者によって書かれている。
これは実際報道されたことのはずなのだけれどすっかり忘れていたが、被害者少女は毎日新聞佐世保支局長のご息女であった。そして、僕はこれを読んではじめて知ったのだけれど、支局長一家の住居は支局の建物の上階だったのだそうだ。

つまり本著の筆者と被害者とその遺族とは、それこそ家族に近いと言って良いほど親 (ちか) しい間柄であり、まさに著者自身がその事件記事を書いているその同じ建物の上の階に遺族が居住しているという、なんというか、極限状態でこの事件の報道が行われていたようである。

そんなわけで、本書は当時の事件取材をした現場記者による10年後の再取材を含んだ記録なのだけれど、当事者とは言わないまでも、当事者とほど近いところにいた筆者がつとめて客観的であろうとした姿がみてとれる。

ただ、やはり冒頭からあまりの痛々しさに読んでいて感情的なところに強くショックをうけざるを得ないのも事実。

この事件の加害少女の「動機」のようなものは、報道や公判でいちおう説明をつけられている。それは Wikipedia にまとめられているのでそちらをお読みいただきたい。

しかし、実際にこの事件を取材した筆者からすると、加害少女の動機というか「心」そのものが、少年法によって保護された結果まったくうかがい知ることができなかったようだし、そのご尊父に直接取材した内容は、Wikipedia に記載されている、加害少女を虐待した「悪い父親」とは齟齬を感じると思わざるを得ない。もちろん、ヒトは一面だけではないので部外者である僕にはなんともわからないことではあるけれど。

その結果、この筆者には、いやどうやら被害少女の遺族達は今でも「なぜこのようなことが起きたのか」はまったく理解できず、混乱したままのようである。

部外者である僕としては、やはりこういう事件には「動機」とは実はなくて、単純に「通り物に当てられた」というか、誰の心にもあるちょっと暗い部分が、なんらかのきっかけで表に出てしまっただけなのかもしれないなあと思う。それだけに被害者はもちろん加害者のことを思っても心が痛くなる。

実はこの事件が当時ネット上で大変に話題となった「NEVADA事件」そのものだったというのは、実はこれを読んだ数日後に思い出した。それほどに、現場で間接的とはいえ渦中に巻き込まれていたひとと遠くからうわさ話をしているひとの感覚とは違うものだということを感じた。もちろん、この筆者があまりに関係者と近すぎて、一部情報を伏せているという面もあるのだろうけれど。

筆者はもちろん、遺族というか被害少女のご尊父 (ご母堂は早くに他界されたのだそうな) がマスコミしかも支局長だったという特殊な状況であったという面もあるのだろうけれども、ここに登場する人たちは「少年犯罪の刑罰が軽すぎる」などとは一切思っていない。むしろ、犯罪を犯してしまった少年 (少女) は正しい教育をうけられずに問題を起こしてしまった被害者であり、少年法はそういった少年を保護するためにあるということを充分にご理解されている。

むしろ、被害者側へ加害者側からコンタクをとらないかぎり、被害者は保護された加害者の更生の様子すら一切わからないのだそうだ。それはつまり実際に家族を失った側からみると「失われた」という事実のみが大きく、むしろなんでもいいから加害者と接点を持ちたい、と思う部分があるのだそうだ。
ちなみに成人した加害少女は今は一般的な社会生活を営んでいるはずであり、そのことについてとやかくいう気は被害遺族にはないものの、とにかく連絡をもらえないか、というのが被害少女の父君のご意見のようである。それが加害少女にとって望むべきなのか、正しいことなのかは第三者である僕にはなんともわかりようのないことであるけれど。

本書のタイトルは、そういった感情から出たと思われる被害者のお兄さんの言葉である。なにげないけれどもとても重くて、そして決して恨んでいるわけでもないけれども、やはり謝罪してほしいという、なんとも複雑な心情をあらわしているのかもしれない。


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